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いくらでも引けます

夢の降る街

そういう街に行きたいよねって

 

高校時代、なんの原稿だか忘れたけれど「わたしの一日は48時間だ」から始まる文章を書いて学校に提出した記憶がある。とろいので何事も人の倍かかる、みたいなことを言いたかったのだ。そしてそれを「書き出しが非常識だね」と言われた。褒めるニュアンスだった。褒めるニュアンスでそういうこと言うの、英語の先生っぽいよね。実際英語の先生だったんだけど。
思い返すことといえば日常の一コマばかりで、そのどれもがわりと精彩だ。行事も大きなイベントもちゃんと好きだったけど、印象は漠然としている。風化しているわけじゃない。覚えていることもたくさんある。だけどすべては日常の延長。いつも冷たい感覚。心の奥、というか、喉の奥が。冷えたものを飲み込んだというより、凍えた胃の中身がせり上がるような。酸味を伴う冷たさで、わたしはいつも日常に引き戻される。
非日常めいたものを、非日常めいたものとして覚えていたかった。消費していく毎日の中に落とし込んじゃつまんねえのに、それ以外の消化の方法がわからない。
吐き出すにはもったいなくて、胃の中で渦巻かせたままだ。楽しかったことも、辛かったことも。

 

逃げるのも溺れるのももっと徹底的にやんなきゃだめだよなと思う。生活を無視して、思い描いた世界に生きたい。それでも何かから目を背けている、という現実しかそこには残らないわけだけど。背けた先が本物になるなら、かまわないはずだ。
わたしの足を縫い留めるものはなんだろう。わたしが完膚無きまでに逃げて溺れて、それで泣く人がいるからだろうか。こんなはずじゃなかったと言われるのはそんなに怖いことか? 怖いよ。なにより怖いよ。当たり前だろ。
必死にやった奴にしか未来はないよ、という言葉を嘘だと言いたくて、あなたの言葉をすべて嘘にしたくて、こんなことをしているのかもしれない。輝かしいはずの未来から生きる気力を前借りすることに疲れてしまった。物が溢れ返るこの家で、思えば一度も「楽しい?」と訊かれたことがない。
ずっとずっと、どれだけの明日が今日になっても、大きな幸福はずっと未来にある。遠い。陽が昇って落ちるまでだってこんなに長いのに、今を愛してはいけないのはなぜだろう。応援されるうちが花だと、雨風をしのげることが幸せなのだとごまかしてはきたけど。花ってなんだよ。幸せってなんだよ。わたしは何を応援されてきたんだ。何個も何個も期待を裏切ってきた、思い通りにならなかったという言葉。痛みの種類と人の殴り方。気を遣いながら日々をすり潰しながら、欲しかったものを取り返したくてまだここにいるのに。なにか間違ったこと言ってる?言ってないよね?という問いでもない問いを投げかけないでほしい。正しかったよと答えなければバッドエンドだ。わかってる。間接的に許しを乞うくらいなら、そんなことしなければよかったのだ。
わたしが幸福になることでしか、あなたの正しさは証明されないはずだろう。わたしはあなたになりたくない。それでも嫌というほどあなたに似ていく。ずっと憶えていることもこうして何かに当たることも──わたしの場合は文字だけど──、どこまでもあなたのようだ。あなたを許さなければあなたになってしまうだけだから、あなたを許したい。何事もなかったように一過性の気持ちとして片付けて笑えた時、はじめて自分に納得がいくのだろう。
良くも悪くも抉るように突き刺さった出来事だけが、思い出の領域にある。領域はひどくくたびれて、色を忘れてしまったようだ。
呼吸が灰色になり、わたしはまた余計なことを思い出す。掻き消えない記憶が焦げついて、古傷のように時折痛む。

 

あなたの言葉がすべて嘘になる世界。それは完璧な非日常だ。雨のように夢が降る街は、やっぱりファンタジーでしかない。夢、夢、夢。誰かの傘ではじかれて跳ねる。合羽も長靴もかなぐり捨てて、どしゃ降りの中へ飛び込むのだ。走り回って水たまりを踏みつぶして、側溝に足突っ込んだってびしょ濡れのまま笑えばいい。だってわたしの帰る家には、きっともう誰もいない。笑ってたって理由を訊かれたりしない。怒号も制止もありはしない。定型のわたしを待つ人はもう、いなくなっているはずだから。泥まみれで家に帰ろう。昼寝の後には虹が見えるよ。