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いくらでも引けます

とりしらべ☆うぉーず

カツ丼じゃなくてマグロ丼がいい

 

最近、ピンと来たことがある。
ずっと考えたことにある種の答えが出たような、ひとつの道が示されたような気がして腑に落ちたのでここに書く。丁度いい表現が見つかった、とも言えるだろう。


わたしの意思表明はいつも、半ば強制された自白ではなかったか、ということについて。

 

 

自白。自らに不利益な事実を認めること。
不利益だったか?と問われればそうでもなかったから、変な言い方かもしれない。それでも、自白、という響きがしっくり来た。何がしたいか、何をやりたいかを尋ねられそれに答える。その光景と、薄暗い取調室の光景が乗算で重なったとき、ああこれだ、と納得したのだ。繰り返された景色によく似ている。わたしはいつも項垂れた容疑者だった。


わたしは愚図だ。愚図は嫌いだと言われ続けても愚図。二言目には「ちょっと待って」と言う。それに苛立つ人が近くにいて、苛立たせていることもわかっていて、それでもとろいままだった。自分で言うのもなんだがよく言えば丁寧で、悪く言えば単純に要領が悪い。
苛立ち気味に「どうするの?」と訊かれるのが嫌で、本当に嫌で、その度に思考が止まる感覚がはっきりとあった。自分がどうしたいか、ではなく、今この問いをどう片付けるか、この人の機嫌を戻すためにはどうすればいいかとかそういう余計なことを考えてしまい、結果、心にもないことを口走ったりする。そうしたいような気がするけどそうしたくないかもしれない、もう少し猶予が欲しかったようなことを、うっかり早急に決めてしまう。どうするの。どうしたいの。愚図は嫌いだよ! はいじゃあもうこれでいいです。これ以上訊かれたくないので。ひとまず、取り調べは終わる。いつ始まるかわからない次の査問までとりあえず、平和を得る。判決は下らない。

 

彼らにとってはわたしの自白がなにより重要で、あんたがやりたいって言ったんだよ。という言葉を免罪符にしているようだった。あんたが欲しいって言ったんだよ、あんたが買ってくれって言ったんだよ、という言葉を聞き続けて、わたしは物が捨てられなくなった。もう着ない趣味の服もあり得ないくらい薄汚れた小物たちも、あんなに欲しがったのに、と言われるともう家から外に出せない。要らないと言えない。狭くなる居住空間がわたしを圧迫していく。思い出の証拠がなんにもなくなるのは寂しいことかもしれないけど、だとしたってこんなには必要ない。絶対に。

いつからか、買い物を隠れてするようになった。部屋を持っていないわたしは古い鞄や本棚の影に自分の物を潜ませて、慎重に扱った。自分で自分のために買い自分だけが使ったものは、ためらいなく捨てることができた。

この居間にだって、昔々に付き合っていた人からもらったテディベアが今も鎮座している。特段の思い入れがあるわけでもなくただ機械的に、他者から受け取った、という事実だけによるカテゴリ分けで廃棄を免れ続けてきた。色恋沙汰が絡まなくともそういうものは少なくない。だってもうずっと、人からもらったものが捨てられない。それは差し向けられた感情を無下にすることと同等である、過去の否定であるという認識が拭えないままだ。

わたしは自分に甘いので、当時の自分をなかったことにできない。いつだって、かつての自分をすっかり忘れてしまおうとできない。それをしたら最後、ここまで抱えたはずのものが無に帰す。そうなったら未来を呪うのは他でもなく、あの頃思い悩んだ自分であるような気がしてならないのだ。

 

つけっぱなしのテレビに子供が映るたび、幼かったわたしの話を嬉々としてする。同じ話を何度も、何度も聞かされているけどわたしは多少優しいので楽しく相槌を打ち、笑って合わせる。静粛に、静粛に。できる限り、自然に。一定の時期から訪れたはずの都合の悪い話なんて、まるで一切なかったみたいだ。語られるわたしはただの、輝かしい未来を描ける子供でしかなかった。満ち溢れた光がそこにはあった。お前の親孝行は三歳までで終わったよ、というあの言葉は、特に優しさでもなかったのかもしれない。少しずつ、少しずつ道を逸れて、ここにいる。回り道のすべてに喉が焼き切れるほどの「どうするの?」が隠れていて、その度に咄嗟にハンドルを切って、落ちないようにだけ走って、気づいたらここだ。記憶の限り供述するなら、そう言うしかない。
人からもらったもの、それがたとえ実体を伴わないものであっても──愛情、友情、怨恨、あるいはその類のなにか──、これから先ずっと、捨てることができないのではないだろうか。怖いな。受け取ったものに執着して、自分で手にしたものはあっさり手放し、人との関係の中に自分を配置することでつかの間の安息を得る。というか、自力で掴んだものが何であるかもよくわからないまま、流れに急き立てられて手っ取り早く安心したがる。虚実ないまぜの自白を繰り返して、中途半端に考えることをやめたまま。なまじ意思が叶っている部分もあるから、まあいいよな、と思ってしまえるのが厄介だ。それでもごまかし続けた先に残っているものは、山積みのガラクタだけだよ。そんなの見回せばわかるだろ。あとはせいぜい、向き合いきれなかった感情の淀みくらい──淀んで腐ってどうしようもなくなった塊が、身体の奥に居座っている。いつだって最悪だ。ひどいね。

 

「どんな話も食卓でするから、食卓が嫌いでした。感情問わず飯が食える胃袋は残念ながら持っていません。あの頃は可愛かった、あの頃は可愛かったと連呼するのを聞きながら、言いたかったはずのことが澱のように沈んでいく。冷え切った胃の底に押し込む物質は味がしません」

 

閉廷のガベルは鳴らず、つまり、まだ罪はない。
三歳の頃のことなんて、もうかけらも思い出せなかった。