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いくらでも引けます

【A.】血にできないなら肉にしなよ

ブログを再設するにあたって、ツイッターに質問箱を置いてみた。

なにかここで引用できるようなことが届けばいいかなと思っていたけど、あっという間にいくつか共通項でくくることのできる質問が揃ったのでその話をしようと思う。その共通項っていうのは、失恋なんですけど。

失われたものが、そこにはあったようだ。不確実なものに確かに彩られて、今月も散るように始まっていく。わたしはウィルキンソンを飲みながら、消えない頭痛をごまかしている。いいじゃないすか。話をしましょう。

 

 

すごい好きだったはずなのに何年も付き合ううちに好きってどんな気持ちだったのか忘れてきて、ついに嫌なところしか見えなくなって、恋人と別れてしまいました 好きって何なんでしょうか?

 

誰かを好きでい続けるのは、どうもえらく難しいことのようですよ。

適切な不断の努力ができていれば恙なくうまくいくのでしょうが、そうは問屋が卸さない。距離が縮まっていけばいくほど見えてくる粗がある。粗がなさすぎるのもそれはそれで空恐ろしいし、足りないな、と感じた部分を愛せるかどうかが分かれ目になってくるんでしょうね。たとえばわたしのように、「こいつお茶碗にご飯粒めっちゃくちゃ残すタイプか」と知ってしまって以降相手の他一切がだめに思えるような奴は恋のその先にたどり着けないわけです。青二才ですね。

でもご飯粒は譲れない、と仮にわたしが思ったとして。それを相手に伝えたいと思うか、もういいや離れよう、と思ってしまうか。もし言葉にして「それは完食ではない」と告げられていたなら、きっとあの恋を成熟させるための一歩を踏み出せたんでしょう。わたしはそれをしなかった。しようと思わなかった。つまり恋は終わってしまっていたわけです。些細すぎる理由で。

 

>ついに嫌なところしか見えなくなって、恋人と別れてしまいました

 

嫌なところしか見えないのが別れる理由になる、ということが恋の終わりを示していますよね。嫌なところしか見えない、けど支えたい、とか。嫌なところしか見えない、けど実は愛すべき長所なんじゃないか、とか。その逆説をもたらしてくれるものに、「好き」という名前をつけているんだと思います。つまりは勘違いのための素敵なツール。好きだから許せちゃうこと、実際あると思うし。ご飯粒残しても好きだから許しちゃうって人、たぶんいるし。

心地いい勘違いを答えと定義してしまうことが、誰かを好きになることだと思いますよ。そして付き合うというのは、ここならずっと溺れててもいいかもという海域を見つけるようなもので。でも溺れてるから最後はもろとも死ぬんですよね。勘違いしてるだけで息できてませんからね。

 

元恋人がちゃっかり開き直って生活しているのを目の当たりにして失望しています どうしたら立ち直れますかね?

 

そしてもろとも死んだ二人に訪れるのは別れだったり墓場だったりするわけですけど、だいたい別れなんですよ。悲しいかな別れの先で奴は元気に過ごしている。山盛りのご飯を相変わらずの汚さで食べていたりもするでしょう。しかしもう奴のことを考えて泣いたり腹を立てたりするのは嫌だ、とも思う。なぜならもう、奴は隣にいないから。

つくづく厄介な構造になってますね。少し考えてみます。互いを知る段階で植え付けられた鮮烈な勘違いとしての「好き」は、鮮やかさを失った時に跡形もなく消えるんでしょうか?

そんなにうまくいかないですよね。なら一切を終わりにした後に残る違和感の正体はなんだろう、って話で。なにもかもすっぱりなかったこと、ってアッサリ片付けられたらそれはそれで、一緒にいた日々への真摯さを欠いているような気もしますし。かけた時間、共にあった時間への執着とか、どうしたってそういうのもあるじゃないですか。

後味がいいお別れというのはつまり、よく噛んで飲み込んで消化する、ということでしかないような気がするんですよ。それこそ一粒も残さずに。キレイに食べて、丁寧に箸を置くしかない。恣意的な記憶処理のできないわたしたちは、そうやって自分の構成要素にすることでしか前に進んでいけないんじゃないんでしょうか。しんどいけど。

 

>どうしたら立ち直れますかね?

 

で、じゃあどうやって消化するんじゃ、という話になる。 

 開き直って生活しているその人が、なんだその、思い出に効く独自の酵素とかですべて栄養にしてしまったのか全部どこかに吐いてきたのか、どちらもできずにごまかしつつやっているのかはわからないですけど。なんにせよあなたが失望してしまうのは、あなたの中で何かが途中半端なままってことなのかなあ。清算だけが答えじゃないだろうし、おれはてめえに失望して生きていくぜ!あばよ!というのも、アリだとは思います。要は消化もへったくれもなくダストシュート直行ルートです。

やー……でも負けた気はするな。わたしだったら。

負けたくねえな。なににって、すべてに。

だからとにかく嘘でもなんでもいいから、ひとまず立ち直ったフリをします。表層だけは健やかに、もうそれは血となり肉となりました。って顔をしておく。ナイス栄養、くらいの気持ちで。そこにある栄養素を吸収しないのもったいない、とでも思いながら。

表層のために全力を尽くしていれば中身がついてくる。って、わたしは信じているので。めちゃくちゃ器から入るタイプなので。

 

失恋を受け入れる方法を教えてください

 

そう、つまり、嘘から始めましょうよ。

悲しくない辛くない寂しくない泣いてなんかない、渾身のハッタリから始めてそれに釣り合う自分になれるまで、ひとつの勘違いに振り回された日々が思い出になってしまうまで、気の済むまで恨んだり赦したりしながらまた溺れてもいい場所を見つけるまで、彷徨いましょう。せめてご飯はちゃんと残さず食べて、よく寝て、口角だけでも上げたらいいんです。

ここまでいろいろ言いましたけど、つまり失恋ってひとつのかわいい勘違いを手放したってだけなんですよ。きっと。愛すべきものが何か、という問いへの答えを勘違いしていた。ミスに赤ペンが入った。それだけ。間違ったってまあなんとかなるようにできてるんじゃないですかね。そう思わないとやってらんねえし。後はまた勝手に答えを決めて、好きなように導いて幸せになるだけです。なかったらなかったで、それもまた解なしという正解だろうし。しょうがないですよね。絶対に次がある、なんて言えないのは可能性の代償だから。

うん。受け入れられなくても、悲しくて暴れても腹を立てて泣いてもアレ(法)に触れなきゃたぶん大丈夫。どれだけ脳内で相手を自分をぶち殺そうがアレ(法)には触れないから。問題ないって顔だけしておけばオールオッケー。外から形作ればオッケー。ほっといても未来は勝手に来るので、適宜受け流しながら納得いくまで死なないでいきましょう。

 

じゃあわたしはご飯を温めてこようと思います。久々に自分のこともいろいろ思い返せて楽しかったなあ。冷凍保存はしておくもんですね。感情ではなく、ご飯の話です。

 

 

(ところで成熟した恋は愛になり高度な愛は何もないのと区別がつかないと言いますが、不断の努力がいらなくなった愛があるとして、それって楽しいんですかね。激情の果てに同じところに戻ってきてしまうなら、わたしたちは何のために人に恋をするんでしょう。同じ地平を保つためなんですかね。誰も誰かを愛さなければわたしたち滅びる気もするし、案外そうなのかも。ここで生きてい続けるために、またいくつも恋が実り、終わり、実っていくんですね。悲しいなあ)